現役教員が気付いた「無能な教員ほど〇〇と指導する」

今日は、正直こういう教員は無能だと思うエピソードを含めて紹介していきます。

ちなみにここでいう「無能」とは子供をうまく伸ばせない人を指します。

みなさん、すでにお気づきだと思いますが、私は変わっている教員です。

私自身もまだまだ無能だと感じることも多いです。

なのでこの記事自体が「無能だな」と判断されても構いません。

ですか、本質は捉えていると思っています。

当然ですが、教育の現場では、指導の方法が教員の力量を示すものとなります。

今回は指導のなかでも特に「学習指導」の面で紹介します。

共感してくれる人がいれば嬉しく思います。

もし目の前の子供の学力がうまく伸びていない場合、みなさんは何を考えますか?

結論を申し上げると、

無能な教員ほど第一に「何をすべきか」を考え、
有能な教員ほど第一に「何をしなくてもよいか」を考える

と思っています。

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無能な教員の特徴:「何をすべきか」ばかりを押し付ける

無能な教員ほど生徒に対して「何をすべきか」ばかりを指導する傾向があります。

その代表的な例が「追試」や「補習」、「追加課題」です。

成績が伸び悩む生徒に対して、追加でなにかを与えることが解決策とされることが多くあります。

もし隣の先生が「今日は〇〇さん(子供)に学習指導です」と言ったらどう思いますか?
おおよそ「先生頑張っていますね」と評価されるのが教育現場ですが、それが一番の過ちだと思っています。

一見すると「生徒のために手をかけている」と評価されがちですが、果たしてそれが本当に適切な学習指導方法でしょうか。

まず、そもそも日々の授業でその子供の学力を十分に向上させられていない時点で、教員自身が指導方法を見直すべきです。

子供がもし「先生、決められた時間に課題が間に合いませんでした。なので明日に出します。」と言ったら、多くの教員は「期限に課題を出しましょう」と指導するでしょう。
だったら「決められたコマで子供の学力を満足に伸ばせませんでした、だから放課後に補習します」はなぜ許されるのですか?

しかしながら、無能な教員ほど「もっとこうしよう!」と考えがちで、根本的な問題解決には至りません。

このような姿勢は、教育において最も避けるべき「自己満足」につながる可能性があります。

追試や補習の本来の役割とは

無能な教員が追試や補習を行ったとしても、生徒の学力が向上しないケースは少なくありません。

大抵そういう教員は「毎週」同じように補習をします

その場合、教員自身が指導方法を見直すべきであり、成果が出ないまま続けるのは、生徒の時間を奪っているに過ぎません。

改めて認識すべきは補習などの「追加」をしたにもかかわらず、「変わらない」でさえもそれは教員の指導力不足だということです。

なぜなら教員の与えられた授業コマでは残念がら伸ばせないという指導不足によって、子供の時間コストを奪ったにもかかわらず、成績は「変わらなかった」からです。

結果が変わらなかったのであれば、ただの自己満足であり、結果を出せなかった教員は、単なる給料泥棒です。

一方で、有能な教員ほど、追試や追加課題を単なる補填手段ではなく、より高度な学習を求める生徒のために活用します。成績が優秀な生徒がさらなる挑戦を求めている場合に、追加の課題や試験を用意することで、学びの機会を広げることができるのです。

指導力のある教員の特徴:「何をやめてもよいか」を考える

改めて冷静に考えてください

授業1つ1つをないがしろにしている教員はいないと思っています

渾身の授業にもかかわらず、それでも現実的に目の前のその子は伸びなかったのです。

そこにさらにその子に負担をかけることをまず考えるのですか?

まずは第一に授業の質をあげましょう。補習する時間があるなら、授業準備にあてて質を高めてください。

しかし、もちろん子供も十人十色、さまざまな子がいます。ここは綺麗事ではなく、そもそもそれどころではないという子もたくさんいるのはもちろん理解しています。

ならば、むしろ目の前の先生ほど理解しているはず。
その子にさらになにかを追加したところでキャパオーバーだっていうことを。

指導経験の豊富な教員ほど、「何をさせるべきか」よりも「何をしなくてもよいか」を優先的に考えます。

子供だって、やらなきゃいけないことぐらいわかっています。

指導とは「引き算」である

指導力のある教員ほど、「何を教えるか」よりも「何をしなくてもよいか」を重視します

そして、その子のキャパを増やしてあげるのです。

もっといえば、正直その子供の価値観とも関わります

たとえば、目の前の子供が「因数分解」ができない、としましょう。中学3年生でしょうか。もしその子が因数分解をできるようになるには、当然勉強をしなくてはいけません。しかし、その子は部活をやっています。子供だって忙しいのです。そこで、部活を削れば勉強時間を増やせるよね、どうする?と考えさせます。そこで「いや、それは嫌です。」となれば、今度は「じゃあ、夜のスマホの時間を削るしかないね」という話もします。という感じで繰り返していきましょう。

そして、最終的には答えは2択になるはずです。

「それを削ります」
「削りません」

もし、削らないのであれば、私はその子供は因数分解をできなくても仕方ないと思っています。

というより、それをなんとかできるようにさせるのはただの教員のエゴです。自己満です。

いやいや、学習指導要領で決まっていて、国の義務だから、、、そんなことを言う教員ならばマニュアル通りにお好きにどうぞと思います。目の前の子供が見えていなさすぎです

教員は神様ではありません。教員が全ての子供を変えられると思っているのならそれは大きな間違いです。

もっと目の前の子供を見てあげてください。

そして実は一番伝えたかったのは、

有能な教員ほど、手のかからない子に時間を割く、ということです。

無能な教員ほど、学力が伸びない子ばかりに目がいき、手のかからない子をないがしろにします

伸びない子ばかりに目が向き、手のかからないいわゆる「良い子」に手をかけていない、そんなことありませんか?

頑張っている子は教員からプラスアルファの指導がされず、頑張っていない子ばかり補習がある、

それって変ではないですか?

私も日々反省の毎日です。手のかかる子ばかりに声をかけてしまったな、と。そういうときはよく素直に伝えるようにしています。保護者向けの学級通信にもよく伝えます。

最後は少し話が逸れてしまいましたが、

無能な教員ほど「もっとやりなさい」と言い、有能な教員ほど「これはやらなくてもよい」と伝えます。

この視点を持つことで、教育の質をより向上させることができるのではないでしょうか。

そして、「指導が必須な子」と「うまくやってくれている子」どちらも同じだけ伸ばすという視点は大事だと常に思っています。

無能な私の記事を最後まで読んでいただきありがとうございました。

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